略歴

 1914年東京に生れ、父系は三代以上の江戸ッ子だったが、母系は九州福岡在で、小生で半分熊襲の血が混じった感じになる。
 中学に入った頃から画描きになりたくなり、中途退学してヨーロッパに連れていってもらったが、ルーブル美術館を一ヵ月廃刊するに及んで、すっかり絶望して、画描きをやめるつもりになり、毎日フラフラと暮す。どういうものかドラクロアから受けた打撃を一番ひどく感じた。日本へ帰る気もなかったが、ある日、詩人の竹中郁、小磯良平などの先輩から、モンパルナスのクーポールで一時間も意見されたのがこたえて日本へ帰ったが、これで他人の意見などきくものでないという教訓を得た。帰国以来、ペンキ屋、図案屋、化粧品屋、喫茶店など
転々として最後に竹久不二彦(夢二画伯の次男)、福田了三(徳三博士の息子)両君の驥尾に附して金鉱探しに夢中になって東北信越の山々を駆けめぐったが、あまり成績は上がらなかった。結婚したりして少し熱がさめた頃からそろそろ戦争がひどくなり、配給と隣組がいやで新聞記者になって一家をあげて天津に逃げ出した。18年の末に陸軍報道班員を失職して青島へ行き、当時製鉄所の副所長だった赤堀英三博士の食客となって考古学の澄田氏という人と三人で山東省の発掘でもやろうといって計画を立てているうちに兵隊にとられ、冀東の山中で終戦となり、23年なんとか引き揚げ、以来なんとなく画描きに近い職業で暮らして現在に到った次第である。スポーツは山登りとスキーをやる。音楽は何でも好きだが、楽器としてはフルートとギターがいい。酒はなんでも飲むが、ウィスキーがいちばんうまい。ギャムブルは全く興味がない。
 家庭は妻と一年半の娘との三人暮らしである。

      この略歴は、 『美術批評』の求めに応じて書かれたもので1956年2月号に掲載された。
            
            「略歴」について

辻まこと年譜・・・・・・矢内原伊作編

1913年
(大正2年)
0歳
 9月20日、誕生。 父は辻潤、母は伊藤野枝
 「1914年東京生まれ、父系は三代以上の江戸ッ子だったが、母系は九州福岡在で、小生で
半分熊襲の血が混じった感じになる。」(『略歴』)
 伊藤野枝全集の伊藤野枝年譜には「1914年(大正3年)1月20日、長男一(まこと)出産」と
ある。
 しかし、1914年生まれということには疑問がある。辻潤著作集別巻の「年譜」には大正2年
(1913年)9月20日、野枝の郷里の福岡県糸島郡今宿村にて、長男一(まこと)、生まれる」と
あり、こちらのほうが事実と思われる。その理由の第一は実弟の若松流二氏がそう云っておら
れるからであり、第二は、大正3年1月から2月にかけて伊藤野枝は旺盛な文筆活動を行って
いるからである。
 辻潤の父は茂木六次郎で、茂木家は埼玉県の出である。その六次郎が辻四郎三の養子に
となったのであり、辻家は浅草蔵前の札差で代々の江戸ッ子ではあったが、血統からいえば
「父系は三代以上の江戸ッ子」というのは不正確である。
 辻潤の母美津は会津藩の江戸家老田口重義の娘で、辻四郎三の養女だった。詳しく言うと、
田口重義の死後、その妻は娘の美津を連れて、四郎三の妻になったのである。辻まことが奥
鬼怒から会津にかけて山を特に好んだのは、祖母を通じて彼のなかに流れていた会津の血
のせいだったかもしれない。彼は事実上この祖母に育てられたのである。
 なお、明治維新で没落したとはいえ、蔵前の札差の明治初年の豪奢な暮らしぶりは、辻美津
述、桑原国治編「実話・蔵前夜話」(昭和3年『文芸春秋』)に詳しい。
1915年
(大正4年)
2歳
8月、弟流二生まれる。 

1916年
(大正5年)
3歳
 4月母の野枝は弟流二を連れて家を出、流二は千葉県御宿の網元若松の里子にし、やがて
大杉栄と同棲。辻潤は巣鴨区上駒込から下谷区北稲荷町に転居し、この家に「英語、尺八、
ヴァイオリン教授」の看板を出す。いわゆる辻潤の浅草時代のはじまりで、彼は本郷の下宿屋
を転々、11月以後は比叡山の宿坊でマックス・スチルネルを翻訳する。
  
1917年
(大正6年)
4歳
辻潤は6月頃比叡山をおり、大阪ぐらしを経て、東京市外上落合の妹の恒の家(津田光造方)
に住む。まことは父の放浪中、この叔母の家で養われていた。
  
1921年
(大正10年)
8歳
父辻潤とともに川崎市砂子に住む。辻潤の訳したマックス・スチルネルの『自我経』(唯一者と
その所有)が改造社から出版され、版を重ねる。
  
1923年
(大正12年)
10歳
2月、父の辻潤は前年に知り合った広島の洋服矢の娘小島キヨと同棲を始める。
9月1日、大震災。辻潤はその1週間後に名古屋、大阪に行く。
9月16日、母の伊藤野枝、大杉栄と甥の少年橘宗一とともに甘粕憲兵大尉によって虐殺される。
11月1日、キヨ、秋生を生む。この異母弟は昭和19年戦死した。
  
1924年
(大正13年)
11歳
父たちとともに東京市外蒲田新宿の松竹撮影所裏の長屋に移り住む。この家にはアナキストや
ダダ系の青年が頻繁に出入りし、居候も多く、また戸締りもせず来客の深夜訪問も許したので、
カマタホテルと呼ばれた。
  
1926年
(大正13年)
13歳
静岡県立静岡工業学校入学。
  
1928年
(昭和3年)
15歳
静岡工業学校中退。1月、父にともなわれて榛名丸で渡欧。、パリに滞在。
パリ14区モンスリ公園街4番地のホテル「デュ・ミディ」に宿り、その後トンプイソワール街138
番地の安ホテル「ビュファロ」の5階29号室に宿る。
父の友人の武林無想庵、村松正俊、林倭衛、松尾邦之助などを知る。また、父とともに
トリスタン・ツァラやイリヤ・エレンブルグに会う。(帰国後それぞれの会見印象記を書いた)
 パリ滞在の終わり近く、中里介山の『大菩薩峠』を耽読。
   
1929年
(昭和4年)
16歳
1月、父とともにシベリア鉄道経由で帰国。東京府下大岡山に住む。父、』小島キヨと別れる。
荏原中延に移り住む。
  
1930年
(昭和5年)
17歳
法政工業学校(夜間部)2年に入学。昼間は「子供の科学社」に勤務。
  
1932年
(昭和7年)
19歳
父とともに洗足に移り住む。
3月、父辻潤、精神に異常を来たし、天狗となって屋根から飛び降りたり、街道をおらび歩いたり
するようになり、青山脳病院ついで幡ヶ谷の井村病院に入院。その後父は虚無僧姿で尺八の
門付をしたりして放浪する。
  
1933年
(昭和8年)
20歳
法政工業学校中退。広告宣伝会社「オリオン社」入社。
雑誌の表紙、挿絵などを描く(ペンネーム津島琴)。
7月、警察の紹介により、名古屋市放浪中に警察の保護されて東山寮病院の精神病室に収容
されていた父を引き取りにいく。
  
1934年
(昭和9年)
21歳
父はいろいろの土地を転々。
10月、祖母美津死亡。
   
1935年
(昭和10年)
22歳
大森の馬込に住んでいたところに、父辻潤が同居する。辻潤は松尾とし子と同棲、尺八の門付
をして歩いたりしていたが、11月頃、錯乱状態となり王子の滝野川警察に1週間監禁された。
  
1936年
(昭和11年)
23歳
「オリオン社」を退き、三井直麿とともにデザイン会社「Zスタジオ」をつくり、ついで喫茶店
「数奇屋茶廊」を経営。このころから山歩きを始める。西湖畔津原の友人の山小屋にしばしば
行き、一人で長期滞在したこともあった。
父は、大森馬込の家に同居していたが、7月以降放浪の旅を続ける。
  
1937年
(昭和12年)
24歳
大森馬込から淀橋区柏木に転居。一時期は父がここに同居する。
友人二人とともに金鉱探しに夢中になり、上信越、東北の山々を歩く。
   
1938年
(昭和13年)
25歳
武林無想庵・文子の娘イヴォンヌと結婚。
父は放浪の旅を続ける。
  
1942年
(昭和17年)
29歳
長女ノブを竹久家の養女とし、東亜新報記者として中国にわたり、同社天津支社に勤務。
  
1943年
(昭和18年)
30歳
陸軍に徴用され、報道班員として従軍。その後青島支社に転じ、妻イヴォンヌ、次女イブとともに
人類学者赤堀英三(当時日本鋼管青島製作所勤務)の食客となる。
  
1944年
(昭和19年)
31歳
11月24日、父辻潤死す。
  
1945年
(昭和20年)
32歳
年のはじめ父の死の後始末のため一時帰国し、ふたたび天津に戻る。天津で現地召集を受け、
陸軍に入隊して戦闘に従事。終戦後在支米軍に抑留され、復員事務作業に使役される。
  
1947年
(昭和22年)
34歳
帰国。日本アナキスト連盟機関紙「平民新聞」に挿絵、諷刺画文等を数多く寄稿。
  
1948年
(昭和23年)
35歳
イヴォンヌと別れる。イヴォンヌはイブをつれて母親武林文子のいたベルギーに去った。
詩誌『歴程』の同人となり、同誌にカット、短文、諷刺画文等を発表し、これは生涯続いた。
   
1949年
(昭和24年)
36歳
ふたたび山登りをはじめ、以後、奥鬼怒、会津、信州などの山にしばしば出かける。
また山スキーにも習熟した。
奥鬼怒手白沢で知った松本良子と結婚。 週間「図書新聞」に挿絵、諷刺画文などの寄稿を
はじめ、これも生涯にわたって続いた。特に多いのは三浦一郎『閑人帖』の挿絵で、これはのちに
『世界こぼれ話』(角川文庫)『ユーモア人生抄』(社会思想者教養文庫)にまとめられた。
フリーのグラフィック・デザイナーとして多くの雑誌広告を手がける。
  
1951年
(昭和26年)
38歳
雑誌『アトリエ』9月号に「サウル・スタインベルグ」を発表。アメリカのカルトゥーン(諷刺画)に
関心を持つ。
  
1952年
(昭和27年)
39歳
東京スポーツマンクラブに入会。
     
1954年
(昭和29年)
41歳
娘の直生、生まれる。
『歴程』誌に諷刺画文「虫類図譜」の連載をはじめる。
   
1957年
(昭和32年)
44歳
アマチュア画家の集まりである「竹林会」のメンバーとなってデッサン会に参加し、また同会の
展覧会に毎回出品。
  
1958年
(昭和33年)
45歳
山の雑誌『アルプ』に「ツブラ小屋のはなし」を寄稿、以後しばしば同誌に山の画文を発表。
また雑誌『旅』『岳人』『山と高原』などにも画文を発表する。
 若い人たちとともにフランスのアルペンスキー技術を研究。数年間にわたって石打ちスラローム
大会、東京スキー大会等に何度か出場して入賞。
  
1964年
(昭和39年)
51歳
3月末から焼く2ヶ月にわたって三浦健二朗とともにヨーロッパに旅行。パリ、ニース、フィレンツェ、
ミラノ、スイス各地を訪ねたあと、単身スペインに赴いてマヨルカ島パロマに滞在。
 『虫類図譜』刊行(芳賀書店)。
  
1965年
(昭和40年)
52歳
『歴程』誌に諷刺画文「余白の告白」を連載
  
1966年
(昭和41年)
53歳
『山からの絵本』刊行(創文社)。
  
1968年
(昭和43年)
55歳
日本画廊で油絵の個展
    
1969年
(昭和44年)
56歳
日本画廊で「見知らぬオトカムの絵はがき」と題する油絵の個展。
    
1971年
(昭和46年)
58歳
雑誌『岳人』に表紙絵ならびに「表紙の言葉」の連載をはじめ、死ぬまで続けた。
 『山の声』刊行(東京新聞出版局)。
  
1972年
(昭和47年)
59歳
胃の切除手術を受け、療養生活に入る。
  
1975年
(昭和50年)
62歳
画文『すぎゆくアダモ」を雑誌『同時代』に寄稿(これはのちに単行本として創文社から
刊行された)。
 『山で一泊』刊行(創文社)。
 12月19日死す。
 12月21日、草野心平を委員長とする歴程葬として、宗教なしの葬儀が百草団地集会所で
営まれた。
  
1977年
(昭和52年)
1月、妻良子死す。
同年、娘辻直生は勉学のため渡米するにあたり、福島県双葉郡川内村長福寺に両親の
墓を立てた。
   「松風はわれらが笛や長福寺」 
(辻まことが長福寺和尚矢内俊晃への手紙の中に書いた句。)
  

辻まこと略年譜(矢内原伊作編)

1913(大正 2) 0歳 9月20日、東京で生まれる。父は辻潤、母は伊藤野枝。
1915(大正 4) 2歳 弟流二生まれる。
1916(大正 5) 3歳 伊藤野枝、家を出て大杉栄と同棲。辻潤の放浪生活がはじまる。
1922(大正 11) 9歳 辻潤、小島キヨと同棲。
1923(大正 12) 10歳 弟秋生生まれる(太平洋戦争で戦死)。母伊藤野枝、大杉栄とともに 甘粕憲兵大尉に虐殺される。
1926(大正 15) 13歳 静岡県立静岡工業学校入学。
1928(昭和  3) 15歳 静岡工業学校中退。1月、父にともなわれて榛名丸で渡欧、パリに滞在。
1929(昭和 4) 16歳 1月、父とともにシベリヤ鉄道経由帰国。父、小島キヨと別れる。
1930(昭和 5) 17歳 法政工業学校(夜間部)二年に入学。昼間は「子供の科学社」に勤務。
1932(昭和 7) 19歳 このころより父しばしば精神に異常をきたす。
1933(昭和 8) 20歳 法政工業学校中退。広告宣伝会社「オリオン社」に入社。雑誌の表紙、
挿絵などを描く(ペンネーム津島琴)。
1936(昭和11) 23歳 「オリオン社」を退き、三井直麿とともにデザイン会社「Zスタジオ」をつくり、次いで喫茶店「数奇屋茶廊」を経営。このころから山歩きをはじめる。
西湖畔津原の友人の山小屋にしばしば行き、一人で長期滞在したことも
あった。父辻潤、精神錯乱におちいり、以後も放浪を続ける。
1937(昭和12) 24歳 友人の竹久不二彦、福田了三とともに金鉱探しに夢中になり、上信越、
東北、北海道の山々を歩く。
1938(昭和13) 25歳 武林イヴォンヌと結婚。
1942(昭和17) 29歳 東亜日報記者(*東亜日報は東亜新報の誤り)として中国に渡り、同社天津支社に勤務。       
1943(昭和18) 30歳 青島にて人類考古学者赤堀英三(当時日本鋼管青島製鉄所勤務)の
食客となる。
1944(昭和19) 31歳 陸軍に徴用され報道班員として従軍。11月24日、父辻潤死す。
1945(昭和20) 32歳 年のはじめ父の死の後始末のため一時帰国し、ふたたび天津に戻る。
天津にて現地召集を受け陸軍に入隊して戦闘に従事。終戦後
在支米軍に抑留され復員事務作業に使役される。
1947(昭和22) 34歳 帰国。日本アナキスト連盟機関紙『平民新聞』に挿絵、諷刺画文などを数多く寄稿。
1948(昭和23) 35歳 イヴォンヌと別れる。詩誌『歴程』の同人となり、同誌にカット、短文、
諷刺画文などを発表し、これは生涯続いた。
1949(昭和24) 36歳 ふたたび山登りをはじめ、以後、奥鬼怒、会津、信州などの山にしばしば出かける。
また山スキーにも習熟した。奥鬼怒手白沢で知った松本良子と結婚。
週刊「図書新聞」に挿絵、諷刺画文などの寄稿をはじめ、これも生涯にわたって
続いた。特に多いのは三浦一郎「閑人帖」の挿絵で、
これはのちに『世界こぼれ話』『ユーモア人生抄』にまとめられた
1952(昭和27) 39歳 東京スポーツマンクラブに入会。
1954(昭和29) 41歳 『歴程』誌に諷刺画文「虫類図譜」の連載をはじめる。
1957(昭和32) 44歳 アマチュア画家の集まりである「竹林会」のメンバーとなってデッサン会に参加し、
また同会の展示会に毎回出品。
1958(昭和33) 45歳 山の雑誌『アルプ』に「ツブラ小屋のはなし」を寄稿、以後しばしば同誌に
山の画文を発表。若い友人たちとフランスのアルペンスキー技術を研究。
数年間に渡って石打スラローム大会、東京スキー大会等に何度か出場して入賞。
1964(昭和39) 51歳 三浦健二朗とともにヨーロッパに旅行。『虫類図譜』刊行(芳賀書店)。
1965(昭和40) 52歳 『歴程』誌に諷刺画文「余白の告白」を連載。
1966(昭和41) 53歳 『山からの絵本』刊行(創文社)。
1968(昭和43) 55歳 日本画廊で油絵の個展。
1969(昭和44) 56歳 日本画廊で「見知らぬオトカムの絵はがき」と題する油絵の個展。
1971(昭和46) 58歳 雑誌『岳人』に表紙絵ならびに「表紙の言葉」の連載をはじめ、死ぬまで続けた。
『山の声』刊行(東京新聞出版局)。
1972(昭和47) 59歳 胃の切除手術を受け、療養生活に入る。
1975(昭和50) 62歳 『山で一泊』刊行(創文社)。12月19日死す。

『辻まことの世界に魅せられて』index