雑文

 13’8.1 
川内村と天山祭り

福島県川内村は辻まことの墓のある村である。自分が死んでも父親と同じ墓には入れてくれるなといっていたといい、死後、家族の手元に残された書き置きには墓不要と書かれていたという。まこと自身はそれでよかったのだろうし、そう望んだのだろう。しかし、程なくして、妻の良子も鬼籍に入った。娘はそうしてやりたかったというが、当時、その願いをかなえてやれるほどの知恵も力もなかったといったところだろう。

辻まことは、友人知人の多い人だった。その誰もが、たとえ、それが遺言でもどこかに埋葬してやりたいと思ったのだろう。その話は、生前、草野心平の縁で親交のあった福島県双葉郡川内村の長福寺の矢内俊晃にもたらされ、村人が眠る長福寺の墓地に隣接して建立された。墓は自然石で戒名ではなく、「辻一、良子の墓」と心平の文字で書かれていると聞いた。墓の写真もまことファンの方に何度か届けていただいていた。

これまで、私にとって辻まことの墓は形でしかなかった。私は辻まことの生き方、考え方に関心を持ったのであって、死後、まことの意志に反して作られた墓をいつくしむ気持ちはなかった。その気持ちに変化が起きたのは原発事故からだった。川内村と聞くたびに、ざわざわと胸が騒ぎ、進んで川内村の情報を得ようとした。

川内村の観光協会のホームページに辻まことの墓があった。事故前に写したものだった。残雪のなかにある墓碑には静けさと明るさが写し出されていた。辻まことの墓を守っている長福寺の人たちを思った。檀家でもない住職の友人に墓地を提供した村人を思った。

川内村は東電の福島第一原発から20〜30キロの距離に位置し、緊急時避難準備区域に指定され、3000人の村民のほとんどが事故後、他市町村に避難したと聞いた。だが、緊急時避難準備区域解除などに伴い、再び村での生活をしたいという住民の意向を汲み、町長の遠藤雄幸が帰村宣言をし、一年後の2012年4月から村民の帰村が始まった。その取り組みが頻繁に報道されるようになって、その時々の川内村に目を向けるようになった。

たとえ住居の周辺が除染されたとして一帯が汚染した村に住めるか、長年生活した土地、土地の人たちと別れられるか、自分ならどうするだろう。幼子を抱えていたらどうするだろう。これから年を重ねるのに人口が少なくなった村に住むに不自由はないだろうか。自分ならどうするだろう。と思ってみる。ふとそう考えはしても当事者ではない私は、その問いを自らから切り離し日々を送る。

この先も原発に頼っていいものだろうか。頼りたくなどない。いや、これまで原発に頼っている意識さえなかった。動いている時代や環境に身をゆだねながら生きて、これからもそうしていくに違いないのだが、そのことへの後ろめたさを原発で傷ついた土地の人たちに感じる。

そのことが、今年は辻まこと生誕百年、なら、川内村に遊びに行こうという気持ちにさせなかった。今年の川内村行きは見送ろう。そう決め込んだ矢先、私の手元に黄緑色をした川内村の封筒が届いた。天山祭りへの案内だった。

あぁ、天山祭。心平さんと川内村の付き合いが始まって、心平さんは川内村の名誉村民になり、詩誌『歴程』のメンバーや心平さんの友人知人が川内村に通うようになり、その人たちと村の人たちが集まって年に一度天山祭と名づけた宴を張る。そのお祭りが心平さんが亡くなった後も途絶えることなく続いていることは聞いていた。そのときに辻まこと生誕百年を祝ったらどうかという話もあったりしたので、7月の第2週の日曜日に行われるということや、心平さんが送った本を収納し、心平さんが川内村に滞在するときに寝泊りした天山文庫を会場にすることなど、天山祭についてある程度知っていた。そのお祭りに誘っていただいたのだ。

誘ってくださったのは草野心平記念館の館長で筑摩書房で心平さん担当の編集者をされていた晒名昇さんで、そのときなら長福寺やいわき市にある記念館や心平さんのお墓を案内できるという願ってもないお声がけだった。いつ訪ねるにしてもひとりでの訪問は心細く思っていたのでさっそく参加させてもらう旨の連絡をした。初めての土地の誰一人知る人のない集まりに不安がないわけではなかったが、祭りには溶け込める自信があった。この時期、祭をやろうという川内村の心意気に心を揺さぶられていたので、まことのように歌もギターも出来るわけではないが、お祭りと名のついたイベントのにぎわしの一員にならなれると思った。

新幹線を郡山で降りると川内村のバスが待機していて、町ぐるみのお祭りを思わせた。郡山から1時間45分、かなり高度を上げてバスは川内村についた。川内村の標識を見てからバスはかなり走ったから広いのだろう。

その日はあいにくの雨で会場が天山文庫から交流会館に変わっていた。参加費500円ですと言われて500円を差し出すとお弁当の引換券を渡された。会場に入って晒名さんにご挨拶をすると、恐れ多いことに、辻まことが『虫類図譜』を『歴程』連載していた頃からの『歴程』会員で今はその発行をされている新藤涼子さんをご紹介いただき、今夜の宿は同室だから、この人に辻さんのお話を伺うといいと言っていただいた。そのとき、あぁ、そういう人たちが集まるお祭りなのだとあらためて思った。だが、近隣の人たちも大勢いたようだ。なにしろざっと見て、会場内には100人は越える人がいた。

天山祭りは天山文庫の落成を記念して始まったものなのだそうだが、心平さんがいないではただの祭りだろうと高をくくっていたが、祭りに心平さんはいるのである。心平さんのバイタリティがこれだけの人を集めたのだ。祭りは今でも心平さんが中心で、参加者の誰もが心平さんを慕っていることが見て取れた。CDではあったが心平さん録音の何編かの詩の朗読があった。戦後昭和の教育を受けた人間なら誰もが知る、門外漢を承知で言うが、現代詩の草分けになった宮沢賢治、高村光太郎、自身の詩が流れた。詩はわからないと思い込んでいたのだが、文字で見て見えなかった世界が脳天に広がる。これが詩か。思いが新ただった。震災後、絆という語が盛んに取り上げられるが、ここにあるのは絆というより、磁力だ。川内村に今も心平さんがいて人を集めているのだ。それを請け負っている村民がいる。そのことに涙しそうになる。

川内村では婦人会という組織が機能していて天山祭りの実行にかなりの役割を果たしているようで、まずお弁当が婦人会の手作りで、いつもここのお弁当はおいしいのよねという常連の言葉にお弁当を眺めると二個のおにぎりに塩焼きの岩魚に山菜を煮たり炒めたりして駅弁とは違う素朴さで目を誘う。今年は山菜をあまり入れれなくてという言葉が痛ましかった。婦人会の余興の川内甚句などに参加して踊っているうちに時間がたち、席に戻ったら持ち帰らないでくださいと弁当は回収され、ゴミ袋に入れられてしまった。返してください、私食べます。その声が大きかったと見えて失笑を買ったがひとり十分に味わった。

祭りが終わり大半の人は家路に着くようだった。表に出たところ、マヒナスターズさながらの合唱を披露してくれたヒマナスターズのメンバーが乗り込んでいた車が水戸ナンバーだったので茨城からだったのですかと声をかけたら、東京のメンバーも横浜のメンバーもいますとの答えだった。もちろん足代が出たとは思えない。これが天山祭りなのだ。

夜、一泊組は親睦会をやった。川内村の小松屋という旅館は心平さんの時代からあり、辻まことの話にも出てくるし、ファンにとっては由緒ある旅館だが、そこは旅館だけでなく蕎麦屋もやっていて、いったんは避難したものの今は戻って営業しているのだという。その名も『天山』、川内村ときたら何をかいわんやである。そこでの親睦会。いや、飲んで騒いで楽しかった。

翌日、小松屋さんからそれほど離れていない長福寺に一泊組が参った。あにはからんや辻まことのお墓へ大勢が参拝することになった。長福寺は代が代わって俊晃和尚の後の後を継いだ若いご住職だった。子供さんが小さいといわき市に避難しているそうだが、私たちのために朝早くからいてくれたのだろう。先代のお内儀さんがお茶を出してくれて、話から震災時の様子を知ることができた。印象深かったのは、私たちが出した義捐金、どうなったんでしょうね。といった新藤涼子さんの言葉に、お内儀は、私たち避難先で冷蔵庫や洗濯機やレンジやジャーをいただいたんですよ。ありがたかったです。という言葉だった。

住職が墓地に案内してくれ、お線香を焚いてくれた。そこで、手を合わせて、娘の直生は元気だよ。時々メールのやり取りをする。帰ったら今回の報告をする。事故があったから、ちょっと外界が騒々しくなっているけど、永眠にここなら結構居心地いいでしょう。また、来れるかなぁそういってみた。なんだか辻まことがそこに眠っていることにご苦労様といいたい気がした。私たちは大勢で行ったにもかかわらず、お寺から珍しい韃靼そばのお土産をいただいた。高地でとれるおそばらしい。震災前の粉だからと手渡された言葉がせつなかった。義捐金のお返しをいただいたようで申し訳なかった。どうしてこんなに、どうしてそこまでという私の感動にそれが川内村の人たちなのよ。と新藤さんはいった。

その後、川内村の天山文庫、阿武隈民芸館、いわき市の生家、草野心平文学館を訪ね、二日間、草野心平と辻まことに浸った。

「かえるかわうち」そう書かれたステッカーをよく目にした。かえるの詩人といわれた心平さんが興味を持ったことから川内村の平伏沼のモリアオガエルは有名になって川内村のシンボルになっている。帰る川内、返る川内、変える川内と字を当ててみる。あぁ、平伏沼を見なかったな。かえるは今年も水辺の木に産卵しただろうか。

               
                        琴海 倫



 13’1.26 
辻まこと生誕100年

大正二年九月二十日辻まことは東京の産院で生まれた。大正二年は一九一三年、したがって今年は辻まこと生誕百年の年に当たる。これまで辻まことはウエットな昭和の気質で語られることが多かったので、どっぷりっと情に浸され、複雑な人間関係にからめとられて辻まことの作品や言動が前面に出にくくなっていたといわざるを得ない。むしろ、辻まことは情などを排してドライでシビアな目で見たほうが、作品の持つ創造性がストレートに伝わる。だとしても、辻まことの育ちや生き方を知らなければ、作品に分け入ってそれを鑑賞して楽しむのは難しい。

まことが誕生した頃、母親の伊藤野枝は『青鞜』という日本で初めての女性文芸誌の編集をしていた。十八歳だった。九州の婚家を飛び出し、女学校時代の教師を頼り、転がり込むように入った家で男の子供を生むことになったのだ。男は辻潤。だが、姦通罪があった時代、辻は野枝を受け入れることで職を失っていた。辻は職に就くことなく、売文や翻訳で暮らそうとするも仕事はなく、日々の生活に困るほど困窮していった。婚家から籍は抜けたが、辻との間に婚姻関係はなかった。

野枝が自ら書くように何の覚悟もなく子を孕んだのだ。その不安定さを一(まこと)と名づけられた男の子は背負い込んで生まれたといえる。届けられた戸籍には大正三年九月二十日生まれとあるのだそうだ。それは辻家の嫡出子として届けられるまでに年単位の間があったがために生じた間違いなのだろう。小さな借家に母、妹、野枝、潤、そこにまことが加わった。野枝が参加した女性文芸誌は、しだいに過激になり女性解放誌の色合いを強くしていく。辻は外国の本から日本にはない新しい思想に目覚め、野枝は影響を受け『青鞜』でも屈指の論客となっていった。

野枝は『青鞜』を創刊した平塚らいてうが雑誌から離れがちになり、軍部の思想に対しての弾圧や読者減から経営が難しくなった頃、望んで代表者になるが苦戦を強いられる。同じく政局ににらまれ苦戦する無政府主義者の大杉栄と出会い、恋に落ち、辻の元に三歳のまことを残し辻の家を出る。弟が生まれたばかりだった。それからおよそ七年後、野枝は大杉とともに軍部により暗殺される。

野枝に去られてからも辻は売文以外の仕事はすることなく、放浪し、酒を飲むようになり、生活は安定することなく凄惨を極めた。辻もまた主義者として軍部に目を付けられている存在であり、社会主義者の子供としてまことは無邪気ですごせる生い立ちになかった。だが、十二歳で父親とフランスに行く機会に恵まれる。父親の書いたものが読まれてその印税が入ったことからだったようだ。絵心を高めようという目的を持った旅立ちだったが、一年余のパリ生活の後、日本に戻り自活を始めた。それでも、画を描くこと、文を書くことが辻まことの本分だったのか、その頃からその才能を生かした。その会社勤めは続かず、友人たちとの気ままな生活を始め、広い分野の読書と深い思索の日々を持った。

時は戦争に向かっていく頃で、逃げるように中国に新聞記者という職を見つけ出国するが、やがて従軍記者に、そして兵役にとられた。

戦後、まことは対価があるなしを問わず、平民新聞、図書新聞、同人誌と発表していった。美術評論もした。知人に請われると雑誌のカットなどに気軽に応じた。しだいに体をなしてきたのが諷刺といわれるものだった。静かな表現だ。見過ごす人は見過ごす。だが、信念を持って社会を批評している。そこに辻まことの辻まことらしさがある。

辻まこと生誕百年といってもどれだけの人が辻まことを知っているだろう。だが、辻まことは有名になどなりたいと思わなかっただろう。世間に辻潤の息子、あの伊藤野枝の遺児だと言われたくなかった。しかし、自分が描くものがわかる人が増えることは願っていた。その情熱が描かせた作品が多くある。それらの作品で、辻まことは自分の思想に共鳴を持つ多く人と出合った。諷刺作家としてまことは認められている。しかし、日本では諷刺という分野は一般的ではない。辻まことの比類のない才能に触れたければ、『虫類図譜』を開いて見るのが早い。

辻まことは後に言った。「書かざるを得ずに書くものを書き物、読ませるために書いた物を読み物という。」諷刺や評論、両親のことなど、前を向いて進んでいくために道を切り開くように書いたものが書かざるを得ずに書くものだったといえよう。書いたものに深い理解が得られたことで辻まことは自己を肯定できるようになったのだろう。四十代になってからのまことは若い頃とは別人に思えるほど柔和な顔立ちになっている。

やがて、辻まことは山の話を書くようになる。辻まことにエッセイストという肩書きがついているのは、山の随筆家としてのファンが多いためだろう。自然や動物に向ける強さ、優しさ、思慮深さは他のエッセイストが持たない味を持っている。その地位、その資産、その環境にあったら自分もそのおおらかさを持てると思わせるエッセイストは多い。辻まことは違う。辻まことのすべての作品を通じて感じられるのは競争心を持っていないことである。勝とうとしない考え方は読むものを居心地のいい世界にいざなう。しかし、相容れない考えは峻拒したのが辻まことだ。毅然として自分を保つ、その精神に魅せられてそれ身につけたいという憧れを持つ読者も少なくないだろう。

辻まことは、自分も辻まことのように物事をとらえられたら、きっと今より楽しく生きられると思わせる人だ。学歴や財産といった楯に出来るものをもたない男が身一つで生きていくためになしたことのあれもこれもがすばらしかったとは言いがたいが、憧れをもって付き合った人たちが多かった。

父の思想も母の思想も今に通じる。まことは父と共に暮らしただけでなく、父の書を読み、父の思想と正面から向き合った。それは自分をおいて出た母に対しても同じだった。その思想を取捨選択し、父を肯定し、母を肯定した人だった。辻まことは辻潤の息子であり、伊藤野枝の息子だという自負を持っていた。辻まこと生誕百年、辻潤、伊藤野枝の主張に耳を傾けるのも悪くはない。社会は長く、母、伊藤野枝を疎んじてきた。母の肯定、それが辻まことの強さと人を踏み込ませない孤高を作り上げたのだろう。その孤高を芸がコーティングした。ギターを弾き、歌をうたい、お話を聞かせという華やかなエンターテーナーだった。その芸にもまた熱心に取り組んでいる。

父も母もなりわいをもてなかった。そのことから生まれた軋轢を幼少時から身をもって体験したまことは定職にはつかなかったがさまざまになりわいを作っていった。才豊かにあれこれをやったことで肩書きで語れない人になったとも言える。辻まことを知るには自分で読むしかない。誰かに話すために読むのだとしたら読まないほうがいい。どれほどの話し上手でも辻まことを伝えることは出来ない。

私なら「百年前、東京に辻まことという男の子が生まれました。こんな作品を残しました。」といって『山からの絵本』と『虫類図譜』を紹介したい。

                          Rinko


 12’6.21 
 『風紋五十年』林聖子著という本

帯に「文壇バー風紋の五十年の歴史 マダム・林聖子の人生を紐解く」とある。
「風紋」の本は『風紋二十五年』『風紋三十年アルバム』があり三冊目だという。

本ではマダム・林聖子の経歴と店の歴史が語られ、お客や関係者の寄稿と五十周年祝賀会の祝辞がまとめられ、本人のエッセイが載っている。このエッセイは『風紋二十五年』の再掲のようである。文壇バーといわれるようになったのは、お客に著名な作家や出版関係者が多いからだが、このエッセイに文壇バーと言われるようになったいきさつが読める。

エッセイ「いとぐるま」は太宰ファンには見逃せない。「いとぐるま」には他の誰も語れない晩年の太宰の姿がある。林聖子は、太宰の口利きで新潮社に入社した人だ。当時の太宰の人気ぶりが伺えるが、親子ほど歳の違う言ってみれば少女を出版社に紹介したわけだから、色恋以外の何かがあったものと思えた。「いとぐるま」では聖子の母・秋田富子が語られている。

まるで作られたドラマのような人と人の付き合いがつづられている。追い詰められていた晩年の太宰の止めてやりたいような時間が書かれている。つかのま太宰がもった静かで幸せな時間がそこにあった。富子は病弱で太宰入水の年に亡くなったが、その母あっての「風紋」だと聖子は言う。

「いとぐるま」というタイトルは母と聖子のつながりから紡ぎだされる糸のように人の縁が続いていっていることを意味しているのだろう。「風紋」がオープンしたときすでに太宰はこの世にない。しかし、「風紋」に文壇関係者が出入りするようになったのは、太宰治という作家がいたからだったと思わせる。

太宰が入水したとき、聖子は新潮社社員で、聖子とともに奔走したのが学生時代に太宰に出会った後の作家・野原一夫であり、筑摩書房の創設者・古田晃だった。聖子は後に筑摩書房に入社しているが、古田に紹介したのは新潮社でともに仕事をしたことがある野原だった。筑摩書房の古田晃という人も、人間に対して尋常ではない熱さを持つ。太宰に惚れた古田の熱さが聖子、富子にも注がれた。聖子が風紋を始めてから古田は風紋をひいきにし支えていった。

もっとも聖子の魅力が人をひきつけるのだろうが、お客は古田から筑摩書房、新潮社の執筆者やその関係者と広がっていった。古田晃は草野心平がやっていた飲み屋に始終現れたと心平が書いていたので、その名を記憶していたが、風紋にはやがて、『歴程』の詩人たちも足を運んだという。

林聖子の父は林倭衛、倭衛はシズエと読む。林倭衛は画家で代表作として上げられるのが、「出獄の日のO氏」で、O氏は誰知ろう大杉栄である。林倭衛はアナーキストだったから、大杉栄、伊藤野枝と付き合いがあり、フランスにいた林が当時フランスで話題になっていたファーブルの著作を大杉と野枝に送ったことから『科学の不思議』が二人の翻訳として世に出たといういきさつがある。

風紋は辻まことのエッセイに登場する店でもある。それ以前、聖子は静岡時代のまことを知っていると書いている。林倭衛は辻潤・まこと親子がフランスに滞在したときフランスにいた。「或る詩人の肖像」という画はフランスでの辻潤を描いたものである。

画家を目指した母が画家として活躍していた父に出会って結婚し聖子が生まれたが、いろいろあって離婚している。聖子も波乱の人生を送ったが、辻まことにもいろいろあったことを知っている。聖子が吉田瀬津子さんについても語れる人だというのが意外だが鮮やかに八十六年の人生を語っていらっしゃる。この本には辻まことの名が随所に出てくるので紹介してみた。

                          Rinko


 12’1.24 
 「ニッポン腐食史抄」に思う

近所の本屋で「辻まことのアンソロジー『遊ぼうよ』」を見つけた。

単行本が並ぶ「つ」の位置にあった。ああ、この本がこんなところに並んでいる。まさか置いてもらっているとは夢にも思っていなかったので正直感激した。何度も出された辻まことのアンソロジーなので注目されることはないだろうと組んだ自分が思っているのだが、辻まことをあまり知らない人には読んで欲しい本になった。「山の人」の先入観なく辻まことと付き合える本と自負している。棚から抜き出して、ぱらぱらとめくって、とはいえ、やはり尾形亀之助の『滑稽無声映画「形のない国」の梗概』の後に「ニッポン腐食史抄」を入れたかったと思った。本というものの性格を考えて入れるべきだったと思った。

「滑稽無声映画「形のない国」の梗概」へのこだわりと「ニッポン腐食史抄」は、現代に、辻まことを語る上で必要なものだったと悔やまれる。それは書店で見かけたときに始まったことわけではなく、ここ数ヶ月胸に去来していた思いだ。

「ニッポン腐食史抄」は、人口が増えたニッポンという島で199X年、腐食という人災が起きたという話で、汚染物質として放射能も挙げられていた。島が腐食され滅び、男女それぞれひとりだけが残って歴史がつながって行く話なのだ。本作りの頃、日本は福島第一原発の事故の衝撃の中にいた。放射能による汚染の怖さは今も変わらない。長びく不安に国民は、治療法のわからない病気にかかった身内を抱える家族の心境でいる。渦中でニッポンという島が滅ぶ話を読む不快さは、身内さえ病気にする。だが、辻まことを語る上では必要だった。

辻まことが「ニッポン腐食史抄」を書いた1971年、放射能の危険はもちろん一般にも認知されていた。被爆国の日本が原子力の平和利用という言葉に放射能の不安を押し隠しながら、高度成長に必要な電力の供給を原子力発電に求めたのだ。原子力発電の負の認識がありながら、周辺地域以外は高い関心をもたないまま、一基、二基と建設を続けて今日に至った。

当時の知識人たちは、建設され続ける原子力発電所に不安を感じながらも、どこか他人事にしてきた。辻まことの「ニッポン腐食史抄」も警告というより、不安が表現されたものと読める。人間の手によって作られるものに、維持されるものに完全はない。人間が制御できないものを設置することは、人間の行く末が滅亡につながる可能性だってある。辻まことはそう指摘したのだ。だから、「ニッポン腐食史抄」そのものを載せて、読んでもらうべきだった。

だが、まことさん、指摘は指摘として、今、現代に、生きて、この原発事故に遭遇していたら、まことさんなら、どうしていた? 何度も敬愛する辻まことにその問いを発しながら、答えを得れないでいる。
                          Rinko



 11’9.30 
 『遊ぼうよ』と『ひとり歩けば』と


『遊ぼうよ』は2011年7月発行の私・琴海 倫編集の辻まことのアンソロジーで、『ひとり歩けば』は近々上梓される柴野邦彦氏編集のアンソロジーである。未知谷から辻まことのアンソロジーが2冊出ることになったのは、私が徹底的に山以外の作品の作者としての辻まことにこだわったからである。

山に入る辻まことの精神は書けそうにもない。私はそこに遊びより真剣な生を見る。一方、芸術表現には、辻まことの思想を見る。辻まことのファンは、多く山歩きをする人たちで、辻まことは山の人として取り上げられることが多い。辻まことの芸術表現は、多分に衝動的であり、表現を受け止めて、遡ると辻まことの思想の海につながる。辻まことの私にとっての魅力は、思想の魅力である。先人たちの思想と自身の泉が作り出した思想が辻まことの思想の海である。その思想の海を感じることで、前進し続けたその考え方に辻まこと一人分の確かな重みを感じる。『遊ぼうよ』の編者の言葉を「辻まこと鑑賞」にしたのは、そのあたりを書きたかったからである。

柴野氏は以前にも辻まことのアンソロジーの編集をされたことがあるので辻まことファンならご存知の方も多かろうと思う。氏は山や釣りへの憧憬が深い。

柴野氏編集のアンソロジーが『ひとり歩けば』だと聞いて、『遊ぼうよ』とタイトルを二つ並べたら、先日来、意識に去来する言葉の断片が一つのつながりを見せはじめた。

このサイトには「人」という項目がある。書けるものなら、人を書きたいものだと思って辻まことと付き合いがあった人の紹介を始めたところ、Wikipediaというサイトが出来て、人の紹介に重点が置かれていたので、にわか知識で自分が書くよりいいに違いないと、「人」を更新しなくなった。

一仕事終えた感のあるいま、やはりもう一度自分の言葉で辻まことの周辺にいた人を書きたくなった。もっとも『辻まことマジック』では、辻まことと付き合いのあった人たちを紹介することで辻まことという人を浮き彫りにするという手法をとったので、いま、新たに自分の言葉で書きたいと思うほど関心を持っている人は多くない。

その中の書きたいと思う筆頭が大杉栄で、このところ大杉を書くために資料を読んでいる。大杉栄は辻まことの母親の愛人だったから、ある程度は読んだし書いた。だが、大杉と母親との付き合いがどうで、辻まこととはどんな付き合いがあったのかということではなく、大杉栄を自分の関心の対象として書いてみたい気になって資料を読んでいるといったところなのだが、一文に引っ掛かってしまってこの文章を書き始めた。

大杉栄の有名な“美は乱調にある。諧調は偽りである。”という言葉のある「生の拡充」の文章の中の一節

「征服の事実とおよびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。」

芸術について言ったものだが、ここにある“遊び”の言葉である。辻まことは生の拡充をいっさい図ろうとしなかった人だ。そう思って、この「生の拡充」を読んで、辻まことの「遊ぼうよ」の文章を読むと、ドキッとするような辻まことの思想に触れる。辻まことの思想を意識すると辻まことの芸術はさらに面白くなる。

辻まことが大杉栄を読んだかどうか? 母の愛人の作品を読むわけがないだろう。そう、もし、辻まことが平凡な男なら読まないだろう。だが、辻まことの世代の知識人にとって社会主義、アナーキズムは見過ごしに出来ない思想であり、大杉栄は一部の人にとって英雄的な存在だったのだから、濫読家の辻まことが大杉栄の文章を読まないはずがない。ましてや、「生の拡充」はよく知られているものだ。そこも読んで、辻まことは自分を作り上げていっただろうと私は思う。誰かを受け入れたり否定することで人は自分の個性を作っていく。遊ぶという言葉の解釈は人によって大きく違う。

話は横にそれるが、BSプレミアムで放送中のたけしアートビートが面白い。自由に大胆にアートに遊ぶ。そのアートに遊ぶ心を辻まことは持っていた。「アートで遊んでご飯が食べれる人間は幸せだと思う」とたけしはいっているが、自由に大胆にアートに遊んで終えた辻まことをその点で幸せな人だと私は思っている。アートに遊ぶ。だが、アートを遊びととらえた辻まことの本質的な血に、私は、芸術家や表現者になったときにも現れる狩猟民族的なものを感じるのである。

これもまたTVの番組を見ての引っ掛かりなのだが、NHK特集に「イヌイットになった日本人」というのがあった。北極に魅せられ、イヌイットの女性と結婚し、自分、子、孫の3代で狩猟をしながら暮らしている様子が放映された。

息子が「狩猟やさかな取りを遊びにするのが許せない」といった。

そのとき、辻まことは岩魚取りも鉄砲撃ちも遊びの感覚でなかったのではないかと思った。私は、辻まことに農耕民族の生活を見ない。だから、仕事という言葉も働くという言葉も辻まことに不似合いだと思っている。ましてや、辻まことの生の充実を、生の拡充に見ない。

辻まことの言葉として「狩人の秋」を先日このサイトに載せた。

 「なぐさみに鳥や毛物を殺してオマエは楽しいのか?……と昔死んだオヤジに言われたことがある。前後左右を忘れ危険とも不安とも思わず、ただ走り去り飛び行く一点、獲物の心臓を射ることに、どうしてあんなに全力を傾注できるのか自分にも判らないが、血と死は狩人にとっては利害損失を超えて働いた力、鹿と人間の犠牲を欠くことのできない魔力の厳粛なあかしであって、狩は決して自分にとってなぐさみや楽しみだけだとは思えなかった。
 純粋な意味での宗教的感情は狩人の心のない者にはわからないのではないだろうか、農耕者の信仰はずっとレベルが低いように私は勝手ながら思っている。」
                                     「狩人の秋」より

狩猟にも釣りにも辻まことは古代人の真剣さを感じさせる。『アルプ』に依頼される原稿はなかなか書けないのだとナマ声で語った辻まことがあるので、この機会にお聞かせすることにするが、なぜ、辻まことが書く山での辻まことは映像的に見せ、楽しませるか。彼は山での自分を客観的に書き、客観的に描く。おそらく、山では書くことも、描くこともしなかっただろうと思う。彼は山では狩人だったに違いない。辻まことを狩人とすると、矢内原伊作がいった「逆転の発想」がここでも当てはまる。芸術することに疲れて彼は山に行ったのではない。「彼は狩人であり、思想を芸術にした」というのが、私が描く辻まこと像である。山に入り、肉体的活動をしているとき彼は精神を熟成させた。

大杉のアナーキズム、辻潤のアナーキズムに影響を受けた一世代後の辻まことは、二人の思想を咀嚼して力みなく、古代人のように山を歩き、辛らつな諷刺をしながら都会に生きたのではなかっただろうか。

ありがたいことに大杉栄の「生の拡充」も「征服の事実」も青空文庫にある。


                          Rinko



 11’8.20 
「辻まことを肴にする会」


拝啓 森まゆみ様

いつ、どこで目にしたものだったか、辻まことは元気をくれる人だと話していらしたのを読んで、以来、森さんも辻まことのファンだと思い込んでいます。

もうずっと以前、Naoと「辻まことを肴にする会」を開こうという話をしたことがあります。Naoとは、辻まことのお嬢さんの直生さんなのですが、私は、それもまたずっーと以前、HPにアップしてあった「辻まこと論」なる拙文を目にとめていただきお声をかけていただいて、お嬢さんがパソコンをされていることを知りました。Naoと呼ぶようになったのは、さんなんかつけあわなくてもお互い尊重しあえていると思うようになったからなのですが、直生ではなく、Naoと呼ぶようになったところに彼女らしい主張がありました。まずはそのことからお話しすることにします。

私はネットでずっとRinkoを名乗ってきましたので、彼女は私をRinkoさんと呼びました。私は彼女より四歳年上で、彼女は、確か森さんと同い年だったと思います。ネットで、私にはさん付けをしないやり取りがあって、遠慮やいやみの入り込む余地がないことが気に入っていたので、彼女にRinkoと呼ぶように頼みました。OKをして、彼女もさんなしが歓迎だというので、私は直生と呼びました。ぎこちない期間も過ぎて慣れた頃、直生という字にはいつもちゃんがついていた。直生と呼び捨てにされると学校や役所を連想するからナオかNaoにして欲しいといってきました。直生という人は自分の心地よさにこだわる人で、それを言ってくれるなら付き合いやすい人だと思いました。それ以来、Naoといっています。Naoはアメリカに住んでいます。

Naoは、私のことをこの人となら辻まことを肴にできると思ったといいます。Naoと私には共通の思いがありました。なぜ、辻まことのファンに女性が少ないのだろうということです。私はNaoと出会ってからHPを『辻まことの世界に魅せられて』としたので、辻まことのファンに見ていただくようになったようなのですが、そこに登場するのはほぼ男性のようだと気づきました。Naoがそう思ったのは著作権者だったからでしょう。

辻まことの魅力を語る相手は女性がいい。これはNaoと私の共通の思いでした。辻まことを楽しむなら、二人より三人がいい。私はNaoに森さんのことを話しました。でも、森さんはすでに大活躍の人で、そんな時間なんかないと思われたし、なにしろ森さんが登場するHPには私はパソコンが苦手で、あまりやり取りできませんと書いてありました。それで、断念したのですが、その思いは、女性の辻まことファンが集まるサイトを作れないかという話になり、サイト名を考えたりしたのですが実現できそうにもありませんでした。

Naoとやり取りするうちに、辻まことに女性ファンが少ないのは、辻まことが男性によって語られているからだという彼女の見方が私の見方にもなりました。だれも、伊藤野枝の著作に目を通さずに辻まことを語っているから、辻まことに陰を作ることになっている。女性の立場から辻まことを語ることを先にしよう。そして、『辻まことマジック』が出版されたのです。辻まことは、野枝さんの生き方を肯定していたと思うのです。少なくとも、Naoはそういう父親を見ています。

私もNaoも野枝が好きです。森さんは『吹けよ あれよ 風よ あらしよ』として、伊藤野枝選集を出していらしゃいますよね。森さんは地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を発行されていた方ですし、私より辻潤・伊藤野枝にはお詳しいと思うのでいうのですが、辻潤・伊藤野枝の著作を読むと読まないでは辻まことの見方が違ってくると思いませんか。Naoは、辻まことはもちろん辻潤も伊藤野枝も読んでいました。父親は、辻潤について話すことはなかったといいますが、野枝のことはしばしば話したといいます。

私の『辻まことマジック』はどちらかといえば、いや言わなくても、女性に読んで欲しいという思いで書いたものです。これが女性に受け入れられて辻まことの女性ファンが増えて、私たちのおしゃべり相手が増えるという目論見で書いたものですが、女性であれ男性であれ、読んでいただけることはありがたいことと思うようになりました。それに、この一年の間に辻まことの本を三冊も出してもらって、辻まこと漬けの日々だったもので、Naoとも辻まことの話ばっかりで、Naoはちょっとこのところ、辻まことに飽きがきているとメールしてよこしました。

それで、女性の辻まことファンが集まるサイトはまったくの白紙に戻りました。いつの間にか、そんな大変なことをやるだけのパワーがなくなっていました。でも、「辻まことを肴にする会」をする夢は継続しています。そこで森さんにお誘いです。Naoが日本に来るとき、ご一緒にいかがですか。そのときは「辻まことを肴に一杯」という会になります。

いつか、森さんにこれをご覧いただくのを楽しみにアップします。


                          Rinko



 11’8.10 
川内村〜1・「ひとの駅かわうち日記」

川内村には廃校を使った美術館があって、そこをボランティアで運営しているひとたちがいて、そこの代表をしている八木澤さんが「ひとの駅かわうち日記」というブログをやっている。

いま、川内村の人たちはどうしているだろうと情報を探して、観光協会のHPから、リンクされていたページに入ったのだが、それから日課のように見て、もう三ケ月にもなる。

「ひとの駅かわうち」は「People’s station Kawauchi」だとどこかに書いてあった。駅は長く人のいる場所ではなく、出かける人、降り立つ人のつかの間のスペースだろうから、八木澤さんは駅長さんといったところだろうか。この発信が、川内村のこと、代表個人のこと、美術に取り組んでいる人たちの紹介などさまざまだが、姿勢が凛としていながら視線がやわらかくて文章に引き込まれる。このひとも肯定のひとだ。こういう人がいるところにまことさんのお墓がある、そう思うことで気持ちが落ち着く。

本業があってのボランティアのようだが、ブログはほとんど毎日更新される。だが、川内村からの発信ではない。川内村の人たちはいま、福島第一原発の事故の影響で住民の大半が県内外に避難しているようなのだが、川内村の放射線量は比較的低い数値にとどまっているらしく、一時的に村に戻ってお盆の準備をしている人たちもいるとか。どうにか住まいできる環境にできないものだろうか。

新聞によれば、川内村では終戦まもなくから盆野球が開催されていて、村一番の年中行事らしいのだけど、川内村ではできなくて、それでも川内村の力を示したいと、郡山市で開催するのだそうだ。

辻まことさんと川内村とのご縁は、草野心平さんとの川内村のつながりに端を発していて、心平さんと川内村がどうつながっていたかをあらためて書きたいと思っているが、「ひとの駅かわうち日記」に書き込みをしたことで、長福寺の先代のご住職、故・矢内俊晃さまの奥様に『すぎゆくアダモ』をお届けいただけることになった。誰かを特定して読んでもらう目的で書いたものではないので、不快に感じることがなければいいがと案じているのだが、お寺の関係の方に送らせてもらうことで、こういうものを書きましたというのをまことさんに伝えてもらえるのではないかというおろかな発想をしたのだ。

もうひとつ、村の復活を祈っていますという気持ちもあってもう一冊送らせてもらった。代表のブログには心平さんのことや長福寺のことが時々書かれるが、辻まことさんのことをこれまであまり知らずにきたとおっしゃるので、知って頂くべく、微力ながら努力をしたい思う。

「今度、その駅に時々辻まことさんが降りま〜す。」

私にとって川内村はいつか、本当に訪ねたいところになってきている。雰囲気をご覧ください。

「ひとの駅かわうち日記」
http://hitonoekidaihyou.blog89.fc2.com/

                            Rinko

 11’8.09 
『すぎゆくアダモ』の増刷

7月の末に、『すぎゆくアダモ』が売れているので増刷しますという連絡を未知谷からうけました。このサイトをご覧の方の中にもきっと買ってくださった方がいると思います。遅くなりましたが、ここに、ご報告させていただきますとともにお礼を申し上げます。。

と、かたいご挨拶をさせていただいて・・・


実は、『すぎゆくアダモ』への反応は早かった。完成まもなくから感想が寄せられた。辻まこと、吉野せいを知る人たちからだったが、楽しませてもらった。面白い解釈だったというもので、知り合いに紹介したというのもあった。五通すべて男性からだったというのが意外だった。

『洟をたらした神』、吉野せいを知る人たちとして、私の頭にあったのは女性だった。書いたはいいが、その人たちにどうやって届けよう。そこで私の思考は停止していた。少しして、世に出してしまったのだから、自立した子供のごとく見守ろうと覚悟を決めた。

しばらくして、女友だちの口にまことさんの名前が出はじめた。三人は確実に辻まことのファンになった。まことさんは若くして亡くなった共通の友人の子供のように話される。アダモもまことさんもごちゃ混ぜで、男の子の不思議が語られる。

私は、どうして辻まことのファンに女性が少ないのだろうと長い間思っていたし、そのことが不満だった。それはきっと、男性の立場で語られることが多いからで別の取り上げ方をすれば、女性にだって受ける作風だと思っていたので、女性に読まれるようになったことに喜びを感じている。『すぎゆくアダモ』を出したいという声を発したのだから、ちょっと貢献したことになる。

だが、そんなことは、辻まことに一向に無関係だ。物言わぬ辻まことは語られるまま。それが今日ただいまの語る人の都合だと先刻ご承知の人だった。

『すぎゆくアダモ』の新装版が出たのはまさに震災に震えているときだった。不安な時代、物語の中とはいえ、アダモのように元気な男の子がいることは希望につながる。

辻まことが『すぎゆくアダモ』を書いたのは1975年。もしかしたら、いま、初めて真剣に読まれているのかもしれない。

私は辻まことを読みながら“私の世界”を作った。真剣に読むようになってからでも20年近い歳月が流れた。そして、辻まことを語っているようで、実は自分を語っていることに気がつくようになった。同じものを見ても、一人一人作り上げる作品が違うのは、それぞれ自分を語るからなのだろう。

                            Rinko

 11’7.25 
石川直樹氏との立ち話

私は三重県に住んでいるのだが、7月17日の新聞に、明日、県立図書館で震災のトークライブが開かれるという案内が載っていた。そこに写真家石川直樹氏の名前があり、氏は震災の二日後、つまり、3月13日に八戸に入ったことが書かれていた。三重県では岩手県の山田町に支援に入っている。そこに行ってきた人たちの報告もあるようだった。

写真家の石川直樹氏はBSプレミアムの7月9日放送の『週刊ブックレビュー』で『すぎゆくアダモ』を書評に取り上げてくれた人であり、山田町は学生時代の先輩が復興の先頭にたって頑張っている町なので是非とも参加したいと足を運んだ。

プロジェクターで津波後間もない写真が映され、石川氏が見た様子を語り、学生と一般市民がボランティアに入って現地で何をし、どのように過ごしたか話した。先着100名の入場と書かれていたが、それほど大々的な告知はなかったようで、100人に満たないこじんまりとしたものだった。

終わってから、石川氏に声をかけてみた。にわか物書きなもので名刺を持っておらず、『辻まことの世界に魅せられて』琴海 倫と手書きしたメモを示したら、すぐに気がついてくれた。アダモについて、「あれは、よかった」といってくれたが、番組の内容から石川氏が自分なりの解釈をしていることがわかっていた。

外国では、北欧といったかな? 人間が動物と話したり、植物が動物になったり、動物が植物になったりする神話があるが、うなぎが山芋になるというのは、そういう神話スケールの話だと自分はとらえている。自分は以前から辻まことのファンだが、『すぎゆくアダモ』に出会って、日本でそういう話を書ける人がいたことにあらためて驚いているという話だった。それはそれでかまわないと思っていたが、彼はそのことについて話しはじめた。そして、どうして未知谷というこれまで辻まことと縁のない出版社から、今になって『すぎゆくアダモ』の新装本が出たのか知りたがった。『すぎゆくアダモ』に出会う前から、未知谷という出版社は知っていたという。『辻まことマジック』は読んでいないといった。おそらく、『洟をたらした神』も知らないだろう。

この『すぎゆくアダモ』は、山芋が吉野せい、うなぎが伊藤野枝の解釈があって初めて本になったものなのだ。実際、『洟をたらした神』が出版された頃の衝撃を知る人は多くないかもしれない。未知谷は、『洟をたらした神』に入れられた吉野せいの作品を収録したアンソロジーを出している出版社だ。今になって、吉野せいの作品を世に出したいと思ったことは当時、その作品が社会に、女性に与えた影響を知る編集者がいるということだ。そのとき、私は未知谷がうなぎと山芋の話に興味を示さなかったら、出版をあきらめ切れると思った。未知谷という出版社の作る本は面白い。こういう本を作る会社には、辻まことの『虫類図譜』に関心を持っている人が必ずいる。絶対、辻まことを知っている編集者がいる。それは私の確信だった。そこで本にできないといわれたら、あきらめよう。そう思ってうなぎと山芋の話を持ち込んだのだ。

私に届いた返事は、「私もそう思います。うなぎが伊藤野枝、山芋が吉野せいだと思います。」だった。それは未知谷の代表の言葉だった。『辻まことマジック』も『すぎゆくアダモ』も、そうして本になったものだった。

石川氏にそんな話をしてみたが、伝わったかどうか。おそらく、彼の読み方を変えるほどの説得力はなかっただろう。「洟をたらした神」をいつか読んでみてください。そういえばよかった。吉野せいを知らずして、うなぎと山芋の比喩は伝わらないだろう。

                            Rinko
2011/7/10
7月9日放送 『週刊ブックレビュー』

7月9日放送の『週刊ブックレビュー』を見た。司会が女優の室井滋さん、評者はデザインを専門にされる柏木博さん、作家の赤坂真理さん、今回『すぎゆくアダモ』を選んでくださった作家で写真家の石川直樹さん。『すぎゆくアダモ』をめぐって話がどう展開するか楽しみだった。

それこそごまんとある本の中からその一冊に『すぎゆくアダモ』を選んだという石川直樹さんについては、とても興味をもって見ていた。テレビ慣れしているとも思えない経歴なのだが、態度も話し方も落ち着いている。その口から出たのは、昔から辻まことという人が好きなのだという言葉だった。そして、辻まことが書いた画と文に私の解釈がついても『すぎゆくアダモ』を拒絶しなかったということだろう。

評者によって、辻まことの略歴が語られて、あっさりと少年が川を遡る話と語られ、中味は覗く程度にしか話題にならなかったが、書かれた当時より、今のほうが共感を持って読む人が多いと思いますね。という言葉があった。彼に、アダモがカヤックを漕ぐ画の表紙の未知谷刊の『すぎゆくアダモ』は似合っていた。若い人が白地に赤の線のある鮮やかな本を手にして語るのを見たとき、アダモに新たな命とエネルギーが注ぎ込まれた気がした。辻まことに『すぎゆくアダモ』から入る人がきっといる。そう思った。

これまで、私は『すぎゆくアダモ』を読んでから辻まことを好きになったという人に出会ったことがなかった。これからは、そういう人がでてくるだろう。そう予感させる展開だった。

『すぎゆくアダモ』にこだわる私の思いをNaoは笑って受け止めていた。まさか私の思いが形になるとは思っていなかっただろう。だが、出版社の未知谷が本にするといった。三月に本ができて、有頂天だったが、経営の足を引っ張ることにならなければいいが、私の胸に何度となくよぎり、口にしてきた言葉だった。だが、ほめてくださる人もいて少しずつ売れてはいるようだった。

放送されたら、評価にもよるが売れ行きに反応があると思うと出版社が言っていたのを思い出し、Amazonを見たら、品切れがおきていて、売り上げランキングが3ケタを示していた。急激に動いたことを示していた。かってこんなことはなかった。『すぎゆくアダモ』で4ケタもみたことはなかった。興味を持った人がいたということだ。私、Nao、未知谷の思いを、石川直樹さんが現代につなげてくれたということだ。

まことさん、そういうこと! どう?この展開!(笑)

                 Rinko

2011/ 6/19

週刊ブックレビュー」で写真家の石川直樹氏が『すぎゆくアダモ』を書評

6月のはじめ、こんなニュースが飛び込んできました。未知谷に連絡があったということですから、1976年版の『すぎゆくアダモ』ではなく、未知谷から出版された私の全文解釈を載せた2011年の『すぎゆくアダモ』ということになる。

5月に司会の児玉清さんが亡くなられて、そういえば「週刊ブックレビュー」を見ていたことがあったなぁ、追悼番組は見なきゃと思いながら、そのままになっていたが、その「週刊ブックレビュー」なのだ。さっそく、見た。それから「週刊ブックレビュー」を見ている。2回も再放送がされている。週3回放送の番組だとはじめて知った。

出演者3人の合評に取り上げられるということなので、石川さんの一押し作品ということなのだろう。感慨深いものがある。とにかく、『すぎゆくアダモ』をこのまま辻まことの遺書として眠らせたくない。『すぎゆくアダモ』で辻まことがいったことは何だったのかちゃんと読んでみようよ。そういいたいなぁ。ずっと、その気持ちを持ってきた。

もしも、もしも、『辻まことマジック』に反応があったら、『すぎゆくアダモ』を単独刊行しません? ああ、いいね。『すぎゆくアダモ』はいい。すぐにやろう。『辻まことマジック』の反応は待たないでもすぐにやろう。未知谷との間にそんな話があって実現したことだったが、『すぎゆくアダモ』をまな板に載せる方法など考えるまもなく、取り上げてもらえることになった。

石川直樹さんという1977年生まれの若い感性が『すぎゆくアダモ』をとらえることになる。願ってもないことだ。
なんだか、私の解釈は余分な気がしないでもない。
私の解釈はおいといて、辻まことの文章を読みながら、大勢でストーリーを探る作業をしたら、面白いだろうな。いつかそんな機会があったら仲間に入りたい。

辻まことの死とか、最後の作品という言葉を取り除いて『すぎゆくアダモ』が大人の絵本として読まれるようになったら、うれしい。だけど、そんなことがなぜうれしいのだろう。う〜ん、と考えて、自分がこだわってきたことだからだと思った。

とにかく、書評を楽しもう。

ちなみに『週刊ブックレビュー』は
【BSプレミアム】土曜 午前6時30分〜7時24分/月曜 午前2時〜2時54分(再放送)/金曜 午後0時〜0時54分(再放送)

司会・室井滋、

『すぎゆくアダモ』が取り上げられるのは7月9日(土)で再放送が7月11日、7月15日になる。

きっと、夏になっている。


2011/ 6/02 
刊行予定  辻まことアンソロジー 『遊ぼうよ』

辻まことの随筆に『遊ぼうよ』というのがある。何を遊びにするかは人によって異なる。人によって楽しいと思うことが違うからなのだろう。
最近気がついたことがある。私は辻まことのこの遊ぼうよの精神が好きなのだと。そして、この一見何の役にも立ちそうにない精神を身のうちにこっそりと隠し持っている人たちが少なからずいて、その人たちが今辻まことのファンでいて、ファン予備軍なのだと。

出版という世界に足を踏み入れているが、自分の思いを言葉にするときにノーといわれたときに受けるダメージをしばしば考える。たぶんそれが自分のなかで長い時間を経て出てくるものだからだろう。辻まことのアンソロジーのタイトルを『遊ぼうよ』にしたいと思ったときにもそれがあった。

「遊ぶ」という言葉自体どう受け止められるかわからなかったからだ。でも、それしかない。どう伝えるか。未知谷という出版社を選んだ自分の勘を信じよう。未知谷を選んだのは、未知谷には他の出版社に見ない遊びがあったからだ。辻まことの遊びが伝わる。私が『遊ぼうよ』をタイトルにしたいという気持ちが伝わる。そう信じた。大人の、表現者の遊びは、身を捨てて遊んでこそ、訴えたいものが伝わる。保身しながらの遊びは人の心を打つほどのものにはならない。

ところが、震災の影響が思わぬところに波及して、金子みすゞの「あそぼ」の詩を誰もが知るところとなった。いま、このタイトルにすることが便乗に思われるのが悔しくて、代案を抱えながら脱稿した。

未知谷は一言、『遊ぼうよ』でいいじゃないですか。内心、バンザイだった。

校正刷りはまだ届かない。アンソロジーゆえ、いろいろ手順があるのだろう。
刊行は六月末か、七月か。

今は、辻まことが捨て身で取り組んだ遊びについて、書けた。書いたという思いに浸っている。



 11’5.12 
川内村 長福寺

辻まことのお墓がある川内村の長福寺が、福島第一原発から30キロ県内で住民の強制退去の地域内にあることは、辻まことファンにとっても悲しく不幸なことだ。

一昨日、辻まことのアンソロジー(仮題 『遊ぼうよ』)の解説を書き終えて一息ついたので、2,3日前に新聞で川内村の住民の一時帰宅のニュースを見たこともあり、なにかわからないかと、Googleの検索欄に「川内村 長福寺」と入力してみた。

思いがけないことに、辻まことのお墓が出てきたのである。

http://www.kawauchimura.com/course/category/shimpei/

しかも、2011年2月24日に作成されたページだった。お墓の写真にいい写真はおかしいと思うが、これまで見た辻まことのお墓の写真のなかで一番いい雰囲気の写真だと思った。

このページには当然のことながら、親しかった草野心平さんのことが書かれている。私はシンペイさんも大好きなので、『遊ぼうよ』が刊行したら、一度、川内村を訪ねようと思っていたのだが、これから先その思いがかなうや否や。

これは川内村の観光協会のページだが、このページで川内村がとてもよくわかる。辻まことのお墓の写真も、シンペイさんのこともこのサイトの中にあった。
http://www.kawauchimura.com/

まだ、新しいページのようでご存知ない方もおられると思うので紹介することにした。

話しは変わって、『すぎゆくアダモ』の新装版を手にしたとき、長福寺のご住職にお送りしたら読んでいただけるのではないかと、送る心積もりにしていたところ、こんなことになってしまった。今は避難先に居られると思うので手立てがないが、そのうちどうにかしてお届けしたいと思っている。

ただ、祈るだけしかできないが、一刻も早く穏やかな日々が川内村の人たちに訪れることを祈っている。
                                   Rinko



   11’3.29
長年の夢

夢がかなった。明るいアダモを世に出せた。
余震の続く秋田で自分が解説した新刊の『すぎゆくアダモ』を手にした。ああ、これが書きたかったのだとしみじみ思った。思えば『辻まことマジック』も、それ以前にホームページにおいてあった「辻まこと論」もこれを書くための序論だったのだ。なんだかこれまでの人生が『すぎゆくアダモ』を読み取るためにあった気にさえなった。一区切りだが、新たな出会いがたくさんありそうな気がして、どうぞ、家よつぶれないで!、いま、私の命を奪わないで!と祈った。

私が『すぎゆくアダモ』という作品の存在を知ったときはすでに、湖から消えた少年は辻まことの分身で、『すぎゆくアダモ』は辻まことの遺書という解釈がされていた。だが、少年の明るさ強さは死に行く人のものではない。初めて読んだそのときから『すぎゆくアダモ』=辻まことの遺書説を私は否定した。だが悲しいかな説得できるほどのストーリーを読み取ることができなかった。

辻まことが遺書のような作品を残して自死に及んだ? 
失礼な!辻まことはそんなヤワな男じゃない!

その思いが長い間私の心に渦巻いていた。

私は辻まことの諷刺や随筆からいつも元気をもらった。辻まことがくれる元気は、自分が自分でいることができる元気だった。辻まことは、私たちが見た辻まことと同年代の人たちとまったく違う思想で生きていたように思う。もし、彼らが辻まことと同様の思想で生きていたなら、世の中はもっと違う明るさを持っていただろう。彼らが作ったのは電気がもたらす明るさだった。辻まことは自ら光っていた。この明るさは辻まことの同時代人の誰ももちえないものだった。

『すぎゆくアダモ』の解説を書いたついでに言わせていただくと、辻まことの自死が隠されて、『すぎゆくアダモ』が遺書の扱いをうけたことが、辻まことの魅力を損ねたのではなかっただろうか。

今一度辻まことの作品に触れてほしい。辻まことの作品には、弱気も暗さも微塵もない。

                     Rinko  


 11’3.03 
『すぎゆくアダモ』


 ようやく『すぎゆくアダモ』が校了した。できるのが、3月10日と聞いたからその後書店に並ぶことになる。当初の予定よりかなり遅くなった。それについて、まず、著作権者であるNaoと書類の取り交わし、原画をお持ちの大分の三浦氏とのやり取りし、復刊に当たって、創文社、みすず書房、白日社へのご挨拶などに予想外の時間がかかったという説明を受けた。ともあれ、すべてクリアーできて刊行される。私は今回の『すぎゆくアダモ』の発刊に当たって全文解釈をした。創文社、みすず書房、白日社という名前を聞いて緊張したが、『すぎゆくアダモ』についてはこの35年、どこもその文章の中に踏み込むことはなかった。私は『すぎゆくアダモ』を、ただ幻想的な画をともなった辻まことの遺書にしておきたくなかった。

 解釈を終えて、やはり、『すぎゆくアダモ』は辻まこと表現の真骨頂だったと思った。むずかしい話ではなかったのだ。辻まことはこれを書くにあたって、おそらく、エビ取り爺さんや、釣り舟屋の老人や、河口にある黒い岩になったのだ。どんな話かわからなかったのは、辻まことにだけなろうとしたからだった。柔軟性をもっていろいろな人になってみれば、もっと早くに辻まことがいわんとしたことを知ることができていただろう。私が『すぎゆくアダモ』のストーリーを探してから、20年は経っている。辻まことという人は常にいろいろな人の気持になってものを書いて、自分を押し付けることはなかった。それが心地よくて辻まことを読んでいたのに、アダモにばかりこだわっていた。それが、物語に使われている言葉を跳ね返して、意味を通じなくさせていたのだ。
 『すぎゆくアダモ』は辻まことの最後の作品だ。辻まことの作品のすべてに目を通したから、アダモの気持がわかるようになったといえる。くり返し、くり返し、辻まことを読み、20年が過ぎたが、アダモがわかるようになって、さらに、辻まことがおもしろい。


『すぎゆくアダモ』前書きに入れた文章です。

『すぎゆくアダモ』について

 辻まことの作品の中で、『すぎゆくアダモ』はもっとも大きな作品にあたる。
おそらく、辻まことは、これが最初で最後の大作になると思いながら企画し、創作にあたったものと思われる。辻まことは、この作品の数年前から患い、入退院を繰り返していて、もはや回復は望むべくもない状況にあった。
 辻まことの創作は多彩で、このように線で構成されたペン画は他に見当たらない。『すぎゆくアダモ』は、美しい十二葉の線画で構成されている。画は画として、ストーリーも、吟味を重ねたはずである。
 しかし、この作品が発表されてまもなく、辻まことが他界したことから、『すぎゆくアダモ』は辻まことの遺書という扱いを受け、重く湿ったベールに覆われた。それから、三十五年の時が経った。年月はそのベールを風化させてきた。そして、ベールに覆われていたことが幸いして、創作されたときの手つかずのままの思想をもち続けている。
 人が年を重ね、地球上のすべてのものにも同じ時間が流れたことを知ってはじめて伝わる話がある。画は思想がわかってこそ味わいがでる。辻まことには伝えたいことがあった。もちろん後世を生きる人たちにである。あらためて画と文章を届けたい。今なら辻まことの思想に共感を持つ人が少なくないだろう。

                        Rinko  


 10’12.15 
『すぎゆくアダモ』の単独刊行決定 

『辻まことマジック』を書籍化したあと、辻まことのアンソロジーを刊行することになっていたので、その一環として解説に『すぎゆくアダモ』を取り上げようとしていた。

 ところが、「読書百遍」だったのか、あれほど、むずかしい、わからないの連発だった『すぎゆくアダモ』のストーリーが突然に見えた。苦節20年、意自ずから通ずだったようで、自分が読み取ったストーリーに感動した。

  誰かに話したいと思ったが、何度も言うように私の周辺に、辻まこと、ましてや辻まことが残した最後の作品に関心を持つものはいない。全文解釈を文章にしてNaoと『辻まことマジック』の出版社未知谷の担当者に読んでもらった。私の担当は未知谷の代表ご本人がされている。私が暴走する前に強力なブレーキを掛けれる人なのかと思っていたが、どうやら辻まことのファンらしい。
 Naoは、「Rinkoの解釈、画期的だよ、説得力がある」と喜んだ。アカデミックな解釈だとも言った。意外や意外、未知谷からも同じような感想をもらった。かくして、『すぎゆくアダモ』が解説付きで単独刊行と相成った。

  『すぎゆくアダモ』はこれまで遺書として読まれてきた。だが、私は『すぎゆくアダモ』を辻まこと62年の集大成ととらえてきた。だから、いつか、それにふさわしい物語として姿を現す日を待っていた。ポエムやアートの言葉を分解して物語を知ろうとしても全容は現われないだろうと思っていたが、おそらく自分が立っていた位置が見える位置だったという以外に、その全容が見えたことを説明する言葉がない。神秘的な物語だった。

 『すぎゆくアダモ』は1976年、辻まことが亡くなった翌年に出版されている。同人誌『同時代』からの依頼で書かれたものを単行本にしたからか、遺書の意味を込めたのか表紙は白いまま。しかも縮小されたからか、画からペンの勢いは消えている。

  誰と話したのだっただろう。ホームページに書いたものだっただろうか?『すぎゆくアダモ』を今から作るとしたら、どんな表紙にする? 私はいつかそういったことがあった。どんな本になるのだろうか。
  きれいな画で『すぎゆくアダモ』を単独復刊することは、私の夢だった。近々実現する。夢は見続けているものだ。いつか実現する。
  『すぎゆくアダモ』の原画は大分にある。

                       Rinko


 10’12.19 
辻まことの命日に

 辻まことの墓は福島県双葉郡川内村長福寺にあるという。ファンが訪れるというが私は参ったことがない。死ぬことを気の毒に思うのは、重い石の下敷きになって、湿った土の中にいれられるからと思っているところがある。意識の中で死が墓につながっている。

 だが、Naoはある時こんなことをいった。「私は自分の都合で父の墓を作った。そのことを申し訳なく思っている。」

 辻まことは墓は不要というメモを残していたといわれるが、墓を作ったことを申し訳なく思うことに釈然としなかった。私は、死んだのだから墓に入れられるのはしょうがないことで、入る墓がないのはかわいそうなことだと思っていたので、墓を作ってあげたことはむしろいいことだったのではないかと考えていた。でも、Naoの思いを理解出来るときが来るかもしれないと思ったから、そうは言わなかった。

 春のある日、もう山へいくことも少なくなったが、鈴鹿では春、こぶしの咲く山、桜の咲く山、つつじが咲く山がそれぞれ違っていて、桜が満開の頃は、終わりがけのこぶしと咲き始めのつつじが見られることもあり、その頃には必ずといっていいほど山に行くのだが、沢に下りて遊んでいた。そこで私は鹿の白骨化した頭部を見た。鹿は前歯が何本か抜けていた。鹿は老衰して死んで、雨で上流から流れてきてそこにあるように思えた。その死がとても神聖な気がした。こうして土になるのだと思った。墓をいらないといった辻まことと、墓にいれたことを申し訳なく思っているといったNaoの言葉が分かった気がした。

 突然、辻まことはこんなふうに死にたかったのだろうと思った。そう思うことでいくつものなぜが消えた。辻まことの自死を知って二十年、自死を受け止めかねていたが、老衰の鹿の頭に陽が当たっているのを見て、山を歩いたまことはこんな自然を幾度となく目にしていただろうと思った。山の中に、あっけらかんとした死があった。病院で迎える人の死のやりきれなさ。辻まことの自死は、自ら実行した尊厳死だっただろうとそのとき思った。Naoが通夜の席で「彼、もうこれでいいんです」といった言葉も腑に落ちた。

 「死の上にピラミッドと石塔を築くな。死体を土で温めるな。それら偽の生はカタコムブの聖者の髑髏のように愚鈍だ。
 死の衝動を純粋に死のほうへ、死体を炎に投じて、急速に生を酸化させろ。生の世界は一握りの灰と煙によってしばらく記憶にとどまるのみで断絶する。
 在るときに有るがごとく、去るときに無のごとく、思想は雲のようなのがいい。」

辻まことの言葉だ。                             
                       Rinko



 10’11.10 
このHPの発展形が本になりました。

久々の更新です。

サイトを更新しなくなってから、ずっと辻まことのお嬢さんのNaoさんとやり取りを続けておりました。Naoさんに、これまで公にされていなかったことをいろいろお話いただき、新しい辻まこと像が出来上がりました。

当初から、こだわっていた『すぎゆくアダモ』も新解釈が出来上がり、出版社未知谷さんに読んでいただいたところ、きっとそうだ!と賛同してもらい、急ぎ出版の運びとなりました。
        タイトルは『辻まことマジック』です。

主な登場人物  辻潤(父)
           伊藤野枝(母)
           大杉栄
           キンサク
           草野心平
           串田孫一
           ジャコメッティ
           矢内原伊作
           宇佐見英治
           山本太郎
           山本夏彦
           三浦健二朗
           吉野せい
           ナオ(娘)
                     
 これまで書かれることがなかった、辻まことの母親観=女性観を浮き彫りにしました。

タイトルは、まことが文中に仕掛けをして、しばしば読者を楽しませたことから取りました。
『すぎゆくアダモ』に仕掛けして、辻まことは何を語りたかったのか、これまで辻まことに関心を持っていなかった人たちにも知って欲しくて、出版することにしました。                  Rinko

『辻まことの世界に魅せられて』index